西 浦 町 自 治 会 連 合 会


西浦町自治会連合会は、さきにも述べたように、
昭和44年、各町自治会が発足した直後に結成された。
元来自治会連合会は、行政区域、即ち京都では学区単位にあるのが普通であるが、
西浦町では各自治会は、それぞれ砂川深草の両学区の連合会に所属しながら、
特に西浦町だけで連合会を結成したのは、
行政上というよりも地域的な必要性から組織したものです。
結成のいきさつに就いては先にも述べたのでご参照下さい。
結成以来10年、町民一同の衆智と団結力、
役員の不断の努力によって、
西浦町の福祉向上に着々と貢献してきたのである。

1 会 則 の 変 遷


西浦町は御存じの通りの新興住宅地、人口の増加は甚だ急速、
従って会則の内容も二回改正され今日に至っている。

◎ 44年発足時の内容
構 成 町自治会8・団地自治会2 計10自治会
評議員 各自治会の正副会長・市政協力委員の全員
役 員 会長1(総会で選出)
副会長4(砂川・深草ブロックより各1、団地より各1を選出)
監事2(砂川・深草ブロックより各1を選出)
事 業 役員が分担

◎ 47年一部改正の骨子
評議員 市政協力委員を廃し、
各自治会正副会長と役員 2名づつを選出。
役 員 副会長4を2に改め砂川・深草ブロックより各1づつ選出、
副会長は総務と会計を分掌する。
理 事 新設 各自治会長が任じ、事業を分担する。

◎ 54年一部改正の骨子
評議員 代議員と改称、各自治会の役員全員とする。
委員会制度を新設し、各種事業を分担推進する。
委員長は理事が分担。委員は各自治会の当該役員があたる。


2 連 合 会 の 業 績 市


44年連合会発足の当時は、全くの新開地、何をさておいても、
環境の整備が急務であったので『住みよい町づくり』をモットーに活躍したものである。
50年頃になると、環境整備も一段落、住宅は次第に増加、
子供の数も急に多くなったので、モットーも、
『なつかしの古里づくり』となり、潤いある生活を重点に、
福祉の向上に努めて、現在に至っている。
さて今後はどうなるのでしょう。
最近の西浦町には、嫌な事件がないではない。
暴力団の刃傷事件や拳銃の打ち込みもあった。
暴走族が走るのはまだしも、麻薬取締官が張り込んだり、
ノーパン喫茶が開店する噂も聞く。

このまゝ放置していいのでしょうか、
後手になってはと、老婆心がしきりに動いてやみません。
「暴力非行のない平和な町づくり」
「悪は芽のうちに摘みましょう」
こんなモットーで、町民の総けっ起と創意工夫が、
必要となる時代が来るのではないでしょうか。
「私の町、僕の古里、あゝ西浦」と、胸を張り、
どうどうと言える西浦町にしたいものであります。

  主 要 業 績

1 区画整理事業の促進
2 道路舗装の陳情
3 公園愛護会
4 側溝の清掃
5 空地の草刈り
6 郵便ポストの新設
7 バス停と横断路
8 高速道路斜面の美化
9 防犯対策
10 消防対策
11 交通規制
12 「にしうら」新聞の刊行
13 チビッ子プールの運営
14 夏まつり
15 子供みこし
16 集会所の新設
17 児童館の運営
18 西浦大通りの愛称
19 スポーツ
20 リクレーション
21 住民自治懇談会
22 青少年育成対策
23 下水道工事対策
24 地下鉄駅誘致運動


  業 績 の 経 過
1 区画整理事業の促進
この件は、先の区画整理の項でも述べたように、
36年に工事に着手して、39年末には工事は一応終了したが、
竹田地区の2戸が反対したため、この説得に徒らに日時をついやし、
住民の促進運動にもかゝわらず、
実に3年もの長い間開店休業の状態が続いたのである。
住民は、町名地番も定まらず、不動産登記も出来ず、
甚しく迷惑、不平不満の声は次第に高まるばかりであった。
市政協力委員一同11名は、協議の結果、総辞退の方法で交渉中、
たまたま、西浦町に新築された合同庁舎の開所に際し、
市長と市政協力委員との懇談会がもたれた、
その席上、不肖秋山と内田現会長が代表して、現地を視察の上、
至急に善処されんことを、強硬に申し入れた所、
市長も市の区画整理の行政にも影響するからとて確約された。

さすがに鶴の一声か、旬日を出ずして、担当幹部の更迭があり、
竹田地区を除外する設計変更の認可をとり、急転直下、解決したのである。
かくて、45年4月、実に10箇年を要した区画整理事業は、
新町名も告示され、登記もすみ、完全に終了したわけである。
この促進運動で、住民の総意結集が、いかに必要であるかを痛感、
自治会と連合会誕生の直接動機ともなった次第である。


2 道路舗装の陳情
西浦町の区画整理事業は「モデル区画整理地区」と銘打って行われたが、
それは「突当たり式道路」による速度制限を意図したもので、
中味をみると、水道、ガスの工事も、道路舗装費も全くない、
寔にお粗末なものであった。
当局は、公共用地−師団街道と竹田街道の増輻、
市道竹田西浦線の新設や公園と緑地などが多過ぎて、
予算がとれなかったというが、結局この区画整理事業は、
遺憾ながら失敗だったと局員は言う。
水道とガス工事は、計画を追加し、東西に数本の幹線路を布設したが、
道路舗装については全く手をつけず、市の一般事業に移した。
地道の道路から立ち舞う砂塵には全町民が悩まされたが、
特に、西浦中央の大通りは、大型車の交通が多く、
その度に立ち上がる砂塵に、庭木や生垣は真白、窓をあけられぬのは勿論だが、
閉じた座敷の机に字が書ける有り様であった。
44年5月、連合会が結成され、先づ取り上げた問題が舗装であった。
大型車の進入禁止など強硬意見もあったが、取りあえず伏見土木事務所に交渉、
舗装実現までの撒水を約した。
しかし、この撒水も車輌不足を理由に長続きしなかった。
よって、地元選出の加藤つる市議に、完全舗装の促進方を依頼したところ
「市にも年次計画があるから、順番が来るまで気長に待つより仕方がない」
と突きはなされ、連合会の役員は喧々囂々、
自民党では予算化はむつかしい、竹田選出の社会党議員に頼めとの発言もあった。
これを伝え聞いた加藤市議は、次の連合会々合の席に顔を出して弁明、
結極、陳情団の案内役をして戴くこととなった。
44年6月、陳情団40余名は、大挙して市建設局に押しかけた。
陳情団規程では、10名が限度、大量の陳情団に、局員も面喰らい、
椅子をかき集める始末であった。
結局、加藤市議の介添えで、局長と面談、抽象的ながら善処の回答を得て引揚げた。
翌45年度には、合同庁舎附近が僅かに舗装された。
46年7月、舗装実施計画の質問のため、池上勝氏等3名の代表者が、
市道路管理課を訪ね説明を求めたところ、
今後3〜4年間で完全舗装の計画であるとの回答を得た。
46年度には、中央十文字の大通りが舗装され、47〜48年度に、
東西線を先に、南北線を、49年度は残りの小部分を舗装して、
西浦町全域の舗装が完了、多年の念願がやっと実を結んだ次第である。
この間、市の舗装が待ち切れず、四丁目南部では、45年、
ボーリング場の開設を機に、私費舗装をした。
また、四丁目北部では、区画整理事業の遅延のため、
登記料値上げによる損害補償で、市ともめたが、
結局現金補償の代りとして、当時、みなが渇望してやまなかった道路舗装を、
繰上げ実施することで示談解決、
46年度に他の町より一足早く舗装されたエピソードもある。
今日この頃、最近再舗装されたばかりの、見事な道路を歩いていると、
そゞろ往年の、蒙々たる砂塵が目に浮び、
舗装運動に走り廻った苦労が夢のようである。

3 公園愛護会
西浦町には六つの公園と苗圃に使用中の緑地がある。
この界隈には類をみない、寔に恵まれた環境である。

44年、市の指導によって、公園周囲の町で「公園愛護会」が結成された、
会長は町内自治会長が兼任。
市は愛護会に運営助成金として、
一公園当たり年1万円を交付、今も継続している。
連合会は、6公園を一括して、その衝に当たり、
交付金の受理、清掃具の購入、花樹種苗の斡旋、
児童の公園愛護思想の啓蒙などをする外、水道や便所の設置、
枯木の植替、砂場の入替排水、
防犯のための下枝刈取などを公園課に要請してきた。

西浦町の公園樹木は、植込直後に大樹木は殆ど枯れた、
就中、中央公園が最も甚しく、長い間、枯木が林立していたので、
口さがない人は「西浦枯木公園」とささやいたものである。

当時、市に植木汚職事件もあり、
新聞紙上を賑わしていたが、
西浦町も「植えっぱなし」の被害地らしい観が、
なきにしもあらずであった。
補植については、再三交渉したが、5〜6年後やっと青桐などが、
申し訳程度に補植されたに過ぎない。
最初の大樹苗が生存していたら、
今頃はこんもりとした見事な森になっていたでしょう。
残念至極。

47年写真のような公園愛護標札を各公園に建てた。


公園愛護会の標札

今は、除草などには失対が入り、
一般作業も公園課が十分に管理するので、
愛護会は、花壇などで、愛護精神の興揚につとめている程度である。
因に、公園愛護会の運営に当たっては、
三丁目の川崎留蔵現連合会副会長が、
設立当初から、大変に御苦労下さいました。

4 側溝の清掃
西浦町の道路側溝は、中央大通り意外は無蓋、
また破損の箇所もあって、溝詰まりが多く、
悪臭と蚊の発生源となっていた。
西浦町は蚊の多い町で有名、
夜ともなると外には立っていられない状態であった。
幾人かの人が、個人的に市に交渉したが、
人口も未だ少く、取上げてもらえなかった。

44年、連合会結成直後、道路舗装の陳情と共に、
側溝の清掃も、加藤つる市議を通して交渉したところ、
舗装は前述の如く、なかなか容易でなかったが、
清掃は即刻、失対が入って行われた。

以来、毎年清掃されていたが、家屋の増加による側溝の蓋が増え、
老人と婦人の失対では、作業も困難となり、48年から中止、
溝詰まりは又々甚しくなってきた。

そこで、50年、連合会では町内一斉の清掃日を定め、溝浚いと消毒を実行した。
第1回は、必ずしも成功とは言えなかった。折角浚い上げた泥は、
市からの収集車が間に合わず、長い間の雨曝し、
悪臭は町内に満ち、車で踏みにじられ、雨で元に流し戻される有り様、
苦しい経験をしつつ毎年つゞけられた。

54年、下水道工事も進渉し、55年には側溝もなくなるので、
今の年が最後の清掃日となった。
下水道工事完了の今、かっての大溝は、柵付き人道となり、
側溝は埋められて、白線の歩道になっている。
今日この頃、側溝のなくなった道路を眺めていると、
文化の象徴のように、美しく感ずると共に、
悪臭と蚊に攻められた頃が、今昔のようである。

5 空地の草刈り
「キリン草」、正式の名は「アキノセイタカキリンソウ」とか。
草丈二M余、麻のように密生し、秋には先端に黄色穂状の花が、
一斉に咲き、多量の花の粉が風に乗って四散する。
宿根草で浅い地下茎と小さい種子で、旺盛な繁殖をする。
終戦後の舶来雑草である。
西浦町には、40年頃、5丁目などで見受け、黄色の花が珍しいので、
手折って生花にもしたが、その後1〜3年で西浦町一円に繁茂した。
花粉が小児喘息の原因となるばかりでなく、
ゴミの不法投棄で蚊や蝿の発生源、
また、空巣、痴漢、臓品などの隠蔽場所となる。
龍大正門前の警察車焼討ち事件の時も、
多くの警官が雑草をかき分けての捜査は大変でした。
伏見保健所深草支所長に伺った所、花粉は杉の花粉と同様に、
たしかに有害、しかし、雑草対策には、市は何等の法令もなく、
手のつけようがないとのこと。

44年、西浦自治連の発足と同時に、草刈り運動に乗り出した。
先づ空地と地主を調査し文書で協力を要請した。
しかし、効果は約10%、200名の地主の内、
遠隔不在の地主には協力は得られなかった。

46年からは、委託草刈の方法を取り入れて、
地主への積極協力を呼びかけたが、結果は毎年40%程度であった。
新聞は、珍しい文書作戦とか、民間代執行とかと、
写真入りで大々的に報道した。


雑草狩り軒児が掲載された新聞の切り抜き


この雑草退治は、やがて各地で政治にも取り上げられ、
除草条令を制定した市町村もあった。
50年頃になると、西浦町は人家も増え、空地は殆どガレーヂとなったので、
草刈り運動は自然に終わった。
6 郵便ポスト
44年頃まで、西浦の郵便物は、
深草郵便局まで投函に出かけたものである。
自治連発足と同時に、西浦に数ヶカ所のポスト設置を申請した。
幸に、六丁目の米穀店主故清水治郎氏(当時自治連副会長)が、
年末小包配達代行で、伏見郵便局と関係があったので、
直接局長に面接して依頼した所、何分人件費も伴うので、
簡単にはゆかぬがと一応了承を得た。
45年、初めて一ヶ所だけ設置をみた。
ポストは六丁目合同庁舎前、切手類売捌所は戸嶋文具店である。
この年に別途、龍大正門にポスト、生協に切手類売捌所ができた。
48年には、中公園(桂化粧品店)、一丁目(林米穀店)に増設。
50年に西浦郵便局が開設した。
52年法務局にも新設され、現在に至っている。

7 交通関係
[バス停]
44年頃、師団街道のバス停は、北はススハキ町に「綿森町」が、
南は飯食町に「藤の森」と「飯食町」とが接近してあったので、
その一つを西浦町の中央部へ移動方を、
キトロ町と野田町と相談、
連名で市に要請した。
バス路線は、陸運局の認可が必要、
急にはゆかぬようであった。
46年、「飯食町」が農協支店前に移動、
50年1月、正式に「深草西浦町」と改名された。
また同時に、野田町に、藤森神社線の「深草西浦町」も新設された。

[横断歩道]
師団街道と第二軍道との交差点は、西浦町への玄関口、
交通量も多いが、交通事故も多いので、「信号燈の横断道路」を、
これも又、野田町、キトロ町と連名で申請したが、
「信号燈」は車の流れから時期尚早とか。
47年、取りあえず「白線横断路」が設定、
その後も陳情の結果、50年にやっと設置され今日に至っている。

[新年交通規制]
稲荷大社の年頭の混雑は西浦町にも及び、45年頃までは、
バスも自家用車も自由に駐車した。
駐車時間は短いが、立ち代わり入れ替わりのの駐車で、
その騒音と排便やゴミで汚され、家庭便所や電話の借用など、
付近の住民は随分と迷惑したものである。
46年から、協議会に西浦町からも出席して、
先づ、駐車地域の指定、次いで通過の制限。
50年からは、全面進入禁止、道路口を、印で遮断し、
ガードマンが立った。
町内居住者には、許可証や、ステッカーを交付し、今も引きつゞき行っている。
53年、稲荷大社前の民営駐車場が、ビル用地となったので、
大社は西浦町一丁目に臨時駐車場を、三〜四丁目に常設駐車場を設けたが、
砂利敷き移動便所のお粗末、
住民の苦情もあって四丁目三上会長など3名が大社を訪れて交渉した結果、
55年に、整備工事が施工されて、出入にはガードマンが誘導している。

[町内の駐車禁止]
45年頃から、西浦町の駐車や交通に関して論議されたが、
賛否両論であった。
警察では、住民地区である限り、早晩全面駐禁だが、実施は段階的に、
しかも、予告期間をおき、
方法については住民の意見を尊重する方針を示された。
47年、自治連は西浦町全住民のアンケートをとった所、
駐禁賛成者78%であった。
48年、先ず西浦町中央部の道路を口形に残して他を駐車禁止、
51年全面駐車禁止となったのである。
54年からは、稲荷、砂川、深草、藤の森学区が、
「防犯重点地区」に指定され、その一環として、
西浦町には「迷惑駐車追放」運動が展開され、
警察は、看板を立て、パトロールを強化した。
西浦自治連でも、ステッカーを全町に配布、
自治連宣伝車で協力を呼びかけた。


8 広報『にしうら』
46・8・15西浦町に初めて会報「にしうら」第1号が刊行された。
 西浦町に自治会が発足して、「住みよい明るい町づくり」が、
活発に展開した時、広報紙の発行も企画されたが、
編集人が中々みつからなかった。
たまたま、その頃、結成したばかりの「西浦青年の集い」の代表者、
木の本勉氏(七丁目)が、心よく引受けてくれ、
創刊号の発行となった次第である。
この「西浦青年の集い」には次のようなエピソードがある。
45年、伏見区体育振興委員会主催のソフトボール大会に、
西浦町からもチームを組織して出場したが、メンバーは、
顔なじみの少ない者ばかり、
試合は隣の池の内町のチームと対戦折悪しく土砂降りの中で、
奮戦これ努めたが、惜しくも小差で敗北した。
しかし、その残念会は、
この青年たちを堅い絆で結ぶキッカケとなった。
何しろ、雨と汗でズブ濡れになった者同志、
大いに語り、意気投合、
我々青年もスポーツを通じて「明るく住みよい町づくり」
に貢献しようじゃないかと、
直ちに「西浦青年の会」を結成、その輪を広げつゝあった。
丁度その時、会報「にしうら」刊行の相談があり、
心よく引き受けて戴いた次第である。


創刊号を見た西浦町の方々は、目をみはって、大歓迎、
引き続き刊行を期待したのであったが、残念ながら第2号で休刊。
素人だけ、しかも奉仕による新聞発行は、
取材や経営に、並々ならぬ困難があったようである。
因に、「西浦青年の会」は、その後、自治連に合流し発展的解散をした。
50・7・15休刊4年にして第3号を発行。
この度は自治連自体で発行、編集人には杉山元治氏(七丁目)を煩した。
しかし、又々1号だけで休刊。
片手間での記事取材がいかに困難かを痛感した。
53・5・1休刊更に3年にして第4号を発行。
本回は幸に現在まで続いている。只今第38号である。
今回は、前2回の苦い経験を踏まえて、
内田自治連会長が陣頭に立って指揮、幸に編集の責任者として、
越智薫史氏(深草西浦住宅)を煩すことができたのを好機として、
広報業務を制度化し、自治連に「広報委員会」を、
各自治会に「広報委員」を置いた。
委員長には編集責任者の越智氏が兼務、
広告責任者には二丁目白鳩の池上勝氏、
印刷は七丁目の大京印刷所の協力を得た。
発行部数月刊2,300部、
記事は、

自治連行事の予告
報告
町内だより
児童館だより
連載読物(西浦町史)
文芸欄など、新年特別号も発行
 編集は、毎月編集会議、編集方針は、
政治・宗教・主義・経済など一党一派に偏せず、
遍く住民の意志を尊重、民生福祉を重点とした。
経営は、広告料による独立採算制、誌代は無料。
従事者は全員無料奉仕。配布先は自治会全世帯と関係機関。
配達は、自治会組織。
因に、西浦町の人口は約7千人。
戸数は約2,700戸。
この程度の町での、月刊紙の発行は、
近隣ではその例をみず、識者の注目をひいている。


56年度連合会分担金納入世帯数

一丁目215
二丁目300
三丁目180
四丁目127
五丁目110
六丁目140
七丁目110
八丁目185
深草西浦住宅225
メゾン深草 99
西浦住宅112
公団住宅150
 計 1953



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