西 浦 町 付 近 町 名

1 カ ナ の 町 名


 西浦町を中心に、キトロ町、ケナサ町などのカナ町名が多い。
 真に珍しいことで、なぜこの様に多いのか、理由は不詳。

キトロ町

 キトロ町は、第2軍道の南、スーパーダイエーのある町、
 疎水の橋もキトロ橋、北を流れていた小川も二級河川キトロ川である。
 語源は全く不明であるが、川上には砥粉山や瓦町もあって、
 流れくる水が「黄泥」、これに由来したとも云うが、真否不明。
 キトロの地名は、宇治にもある。

ケナサ町

 ケナサ町は、砂川小学校のある町、
 南を流れる小川を「ケナサ川」俗に「砂川」と言ふ。七面山から流れた砂が、
 高さ5Mも堆積して「砂川堤」を形成し、松林が昭和初期まであった。
 砂川学区は、この砂川(ケナサ川)に由来するが、
 ケナサの語源については皆目不明である。

スヽハキ町

 スヽハキ町は、砂川小学校の北の一劃、語源は不明。
 「煤掃」を当てたがるが、由来不明で疑わしい。

フケノ内町

 フケノ内町は、警察学校の北西、フケは深田の略、
 こゝは祓い川の下流湿地帯、深田の名に応しい場所である。

泓ノ壺町

 泓ノ壺町は、深草南部、棒鼻に近い所、フケ(深田)に泓の字を当てゝいるが、
 辞書によると、泓の字にはフケの訓音はない、フカシ、フチなどで、
 水の広く深いの意、壺は壺状に深い所。
 泓ノ壺町は、七瀬川の下流の水溜まり、付近には蓮の池町もあって、
 名に応しい処である。

ヲカヤ町

 ヲカヤ町は、龍谷大学の西、明治3年の地図には「ヲカヤ」とあり、
 昭和3年の地図には「尾賀屋」とある。現在は「ヲカヤ町」が公称。語源は全く不明。

小字カラメ

 小字カラメは、ヲカヤ町の南に接続してあったが、
 明治41年、練兵場の敷地となり、昭和24年、農地に転用、
 西浦町と命名されたため、カラメは全く消滅した。
 小字は、大字小字の町村区分。カラメは、干拓地の意であると(今邑氏)

フチ町

 フチ町は、西浦町の南西、フチには淵(川が淀んで深い所)の字を当てる場合が多いが 、公称はカナである。
 こゝは旧鴨川の縁であって、淵もあったかもしれない。
 旧鴨川とは鴨川東河とも言って、
 福稲→竹田久保町→竹田出橋→フチ町→竹田南部の芥川→下鳥羽と流れ、
 氾濫すると伏見を荒らして、宇治川に流れこんだ。
 太閤の桃山城経営の一環として、鴨川も福稲でせき止め、現在の流れにした。
 この旧鴨川跡に、角倉了以が「高瀬川」をつくったのである。

ヒランデ(平田町)

 ヒランデは、今の平田町である。昭和3年の地図には、平田とある。
 平坦な田の意で、附近には六反田町という大きい田もある。
 平田町は高瀬川による稲荷大社詣りの乗降船場であった飯食町
 飯食町は西浦町五丁目の南東、西飯食町と昭和町の一円。
 深草では最古の集落、2千年前の西浦弥生遺跡の農耕人が、
 水害で避難したらしい所、その後2百年再度入植した基地でもある。
 平安時代の奈良春日詣道もイシキを通り、太閤さんの伏見街道も、
 わざわざ曲げてイシキを通っている。
 つまり、イシキは古来、交通、交易の要路、西飯食遺跡からは、
 平安時代の日用品が多数に出土している。
 イシキは、飯食基、新米による米飯を、氏神藤森神社に供え、
 隣人や旅人にもふるまった所、これが語源とされている。
 飯食町では、町内の鎮守社(藤森神社の分社)で、
 古くから11月1日、新穀米飯の御供会が、今も古式によって行われている。
 飯食町の西裏(西浦)には神饌田があり、
 新米や新米で造った酒を供えたと祝詞にもあると(藤森宮司)
 飯食町には、順徳酒の老舗が昭和30年頃まであった。
 飯食町を、飯食い町と読んで下品に感ずる人もいるが、我々の先祖が、
 狩猟や採集の生活から稲を栽培し米飯食の生活へと一大転換をした貴重な遺跡的町名で ある。
 西浦町の弥生遺跡からは、オコゲの着いた土壺の破片が出土している。

2 地 形 の つ い た 町 名 


 西浦町付近には、地形のついた町名が、極めて多いが、旧鴨川の関係である。

 1 川原のついた町名

  福稲川原町・深草中川原町・西川原町・下川原町・向川原町・竹田中川原町

 2 久保のついた町名

  川久保町・竹田久保町・小久保町(古久保)

 3 田のついた町

  平田町・野田町・塚田町・六反田町・五反田町

 4 池のついた町

  池の内町・蓮池町・流池町

 5 川のついた町

  祓川町・深草七瀬川町・竹田七瀬川町・砂川学区

 6 坪のついた町

  一の坪町・四の坪町・藤田坪町

秋山さんの自己紹介




故秋山 松太郎さん 謡曲「高砂の仕舞姿」


平成元年8月24日 自治会連合会結成20年記念夏祭り前夜祭にて

筆者の自己紹介

       秋山 松太郎 (昭和54年 76才)

 明治36年岡山市に生る。
 岡山県立農学校卒業、関東農事試験場に永年奉職、華北交通農場長のとき終戦引揚、京都市役所農務課に奉職、市立農場委託経営
 昭和24年開拓農家として西浦町に入植、定住して現在に至る。
 昭和35年西浦町初めての市政協力委員
 昭和37年西浦町区画整理事業委員
 昭和44年西浦町の自治会及び自治会連合会の創立に参画し、初代四丁目会長、初代連合会会長、現在相談役
 昭和52年砂川老人クラブ白寿会の創立発起人、現在西浦町委員
 職業は仏眼厚生学校卒鍼灸師、西浦町四丁目にて開業。
 趣味は茶道、謡曲、園芸、俳句、俳号松甫。
     (註 昭和54年本略史連載中に載せられたものです。)

     秋山 松太郎 (昭和62年 84才)

 私は今年84の年男。深草練兵場跡に開拓農家第一号として入植。
お陰様で爾来約40年間居住させて戴いています。
長男一家も近所に住み、孫四人も西浦っ子です。
言えば私らにとっては第二の故郷。孫には切っても切れぬ故郷です。
「誰か故郷を偲わざる」で、人一倍と愛着を感じます。
 顧みると、草范々の練兵場跡、進駐軍の通信アンテナが林立していました。
やがて一望の水田時代、竹田街道の市電も田圃の中を走っているように見えました。

ついて本邦最初の高速道路が通るのを機に、区画整理事業が始まり、
次第に住宅化が進むにつれ自治会も結成されて、
道路舗装や空地の背高草刈りなど住民運動もありました。
かくして新興市街となったのですが、自治会の活発な活動で、
子供みこしや夏まつりなど、なごやかな町へと発展しました。
思えば全く今昔の感に打たれます。
 私も幸に地の利、時の利に恵まれ、また善き隣人にも恵まれて、
無事に暮らすことができ誠に有難く感謝しています。
やがては西浦の土と化すことでしょうが、
郷土愛の万分の一でも報ぜねばと思っています。
   (註 昭和62年「にしうら」正月号年男のメッセージより)

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