「にしうら」からこんにちは
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             14-9-27 更新     




はじめに ご挨拶と目次をご案内しています

   済南を語る会を14年9月27日岡山で開催しました。

 

    勝間満里恵(彼女の実名です。旧姓は浜口です)さん執筆の「玄海の波濤を超えて」の出版を記念して
    「済南を語る会」の会合が開かれました。
    当日集まったメンバーは、当時の現役の方々やその2代目でしたが、
    皆さん年齢を忘れて懐かしい話で時間の経つのも忘れるほどの盛り上がりようでした。
    私は、顔見知りは全く居なかったのが残念でしたが、関連する話に納得でした。
    今回は岡山市及びその近郊の方々殆どでしたが、次回はもっと幅広く呼びかけることになりました。

   戦前の華北交通済南鉄路局 ゆかりの女性    

    平成14年6月 全く知らない女性から電話を貰いました。
    私が戦前に居た 中国山東省済南市の済南駅に勤務していたと言う女性からでした。
    話では 彼女は昭和19年・20年に在職、21年青島から引き揚げたそうです。

    私は同15年〜在職 軍国少年として初恋をあじわい同19年に軍隊にはいったので
    時期的には少しずれており全く面識は無いのです。
    それでも済南に居たと言う人からの電話 ものすごく懐かしい思いをするとともに胸がジーンと疼きました。

    私はもっと事情が聞きたくて会いたいと言ったところ 彼女はぜひ来て欲しいという。
    6月22日、その言葉に甘えて、彼女が住む 岡山県の西端笠岡市を訪れました。

    彼女は、済南站(駅)に勤務していた時の状況をつぶさに話してくれました。
    それよりも昭和20年の敗戦、同21年の引き上げの状況を聞いたとき、そのすさましい有様には
    胸を打たれました。

    私も同じく中国から引き揚げましたが、軍人としてのいわば復員です。
    私の居たのは北京から万里の長城寄りの遵化と言うところです。そこから汽車で天津へ出て船でした。
    今考えると当時の居留民の様子は全く知りません。おそらく混乱の中にまだ帰国も出来ずに居たはずです。
    済南にいた彼女ら居留民は、そこから青島までの400キロを半分以上は徒歩での移動を強いられたのです。
    途中における難儀の様子は想像を遙かに超えるものが有りました。

    彼女はこれらのことを一冊の本にしようと思い立って出版社に相談し、近く実現するとのことです。
    題名は
    9月15日発刊です。

    詳しい内容のその本が発刊されてから、私の思いを述べることにします。

    お互いの話は尽きることなく、気のついたときは12時を超えていました。延々6時間あまり。泊めて貰いました。
    もう一日ゆっくりするように薦められたのですが、私が京都で用件が有ったので辞退して帰りました。
    娘さんが京都におられると言うことで、訪ねられたときぜひの再会を約束しました。

    懐かしかったのは、華北交通青年隊の歌が出てきたときです
    彼女は歌ってくれました。60年ぶりに私もメロディーを覚えていたので合唱しました。

    華北交通青年隊の歌

    1 ゴビの砂漠に風あれて  黄塵空を蔽うとも   大地を踏んでゆるぎなく
      隊伍堂々進むべし    我等鉄道青年の    見よ堅剛の意気と熱

    2 黄砂の水のゆくところ  興亡古来常なきも   歴史をここに更めて
      世紀の楽土をうちたてむ 我等鉄道青年の    識れ高遠の大理想

    3 ヒマラヤの嶺高からず  タリムの盆地遠からず 若き先駆の力もて
      やがてゆくべしカスピ海 我等鉄道青年の    きけ遠大の建設譜

    4 今しアジアの朝ぼらけ  旭日燦とかがやけば  若き生命の火と燃えて
      五色に映ゆる旧山河   我等鉄道青年の    おお栄光の大使命

    彼女が私にアタック出来たのは。その出版社が 華北交通済南鉄路局をインターネットで検索したところ
    私のホームページに行き着いたと言うことです。

    私が岡山を訪れたもう一つの目的 もしかしたら初恋の君の消息が得られるかしら? 
    ということでした。しかし願いは達せられませんでした。

    京都から往復500キロ格好のドライブコースでした。







   「玄界の波濤を越えて」   勝間満里恵 著   < 抜粋 >


    先日訪問した 勝間(旧姓 浜口)満里恵さんの著作「玄界の波濤を越えて」
    この度、本になりました。発刊に先立ち著者並びに出版社の了解を得て
    今日8月15日終戦の日を記念して、ここにその抜粋を掲載します。

     ※ 地名は当時の表現をそのまま使っています 以下同調 

   北支への旅立ち

    軍国主義教育を叩き込まれた彼女は、昭和19年3月華北交通に就職するべく、日本を発ちました。
    玄界灘を超え、釜山から朝鮮半島を北上鴨緑江を渡り満州の奉天経由、山海関で万里の長城をくぐります。
    ここからが華北交通の領域です。本社のある北京で今まで一緒に来た人たちと別れ
    彼女は勤務先済南に向かいます。

     ※ 日本出発からここまで、初めて一緒した友達のこと、お弁当のこと、おやつのこと、
       移りゆく周りの風景、など乙女らしい感傷を交えて実に細かく描写されています。

       一人で異境の地にゆことのはかり知れぬ心細さ、懸命に涙をこらえていたかも知れません。

   済  南

     ※ ここ済南で彼女は、終戦・引き揚げまでの波乱の人生を過ごすことのなります。

    済南では済南站(駅のことです)に勤務が決まりそこの会計室に配属されました。
    職場は4人、彼女以外は男性 まさに紅一点です。大事にされました。、
    特に站(駅)長からはよく可愛がられました。
    でも気性の激しい彼女はまだ若いながらにテキパキと仕事をこなして貴重な存在になってゆきました。

    生活は「千草寮」という済南市三太馬路(通りの名前)にある女子寮です。

     ※ ここは私も覚えている。 昭和16年、済南鉄路局人事部にいた美人のお姉様と知りあって、
       送ったり迎えに行ったりして門をくぐった経験がある。
       そしてその近くにあった「紫苑」というお店につれていってもらった。

       そのお店は豪華な感じで喫茶店と言うよりクラブだったのかも知れない。
       奥の中央の大きな電気蓄音機の横に美しい中国女性がレコードをかけている。
       そこでコーヒーを味わう。当時18歳の私にとっては夢のような雰囲気でした。

    昭和20年 ここも米軍機B29の空襲があった。鉄道の機関は最大目標となります。
    勤務地は直接の被害を受けいないけれども、近くで爆撃された中国人被害者の惨状を目撃しています。
    当時は、日本本土の方がもっともっと大きな被害を受けていることを後になって知りました。

    周りの男性は殆ど軍人として招集され、残された女性の中ではいつのまにか古参格になりました。
    そして主任として会計を任されることになりました。若干17歳でした。
    このころから 女子青年隊でも竹槍の軍事訓練が始まりました。

   初  恋 

    寮の大広間で男子青年隊幹部の会議があり、その中に時々見かけた森宮さんの姿がありました。
    「あ、ここにいるの?」
    「そうです。ここの部屋なの」
    「まだみんな集まっていないので、ちょっといいかな?」
    彼の腕には青年隊のマークの下に2本の金筋、青年隊のトップクラスの幹部です。

    当時青年隊の幹部には多くの女性があこがれた。しかも彼は甘いマスクに身長175センチ。、
    美人じゃない私から見れば高根の存在。それが私の部屋をついでとはいえ訪れてくれたのです。

    翌日彼は私の事務所へ来て小さな包みを差し出しました。
    「昨日君の部屋を見たとき何もなかったから これ」
    中味は、彼の出身地上州は国定忠治の壁掛けだった。そして会って欲しいとのメッセージも。
    同室の山下さんは「彼は貴女が好きなのよ」と
    彼は、列車が通る線路の切り替えを行う信号所の責任者。

    会計室に彼が迎えに来たので駅の構内を一緒に帰りました。
    構内にはいっぱいにアカシアの樹が植わっています。その白い花ももう少ない。
    そのころは葉ばかりが繁っていて足元は薄暗い。
    「私近視だから暗いところは ちょっと」
    「僕の腕を持って」
    生まれて初めて男性の腕にすがりました。温かさが伝わってきました。

    いつしか 彼は告白してくれました。 私も「 好きです!」 と
    暗いと言うことは、人を大胆にするものです。それから二人は恋人になりました。
    それを聞いた山下さんはうらやましがって、彼女も男友達を作り始めていました。

    彼に赤紙が来ました。軍隊への召集令状です。
    それからの私達は時を惜しんでデートを重ねました。そして結婚の約束をしました。
    しかし、別れの時が来ました。7月7日。

    「貴男の帰りを待っています」
    彼は一気に私を抱きしめました。初めてでした。不思議と干し草のような匂いがしていました。
    「行ってくる」 後ろも見ずに列車の方へ走っていった。それが最後でした。

   敗  戦 

    8月15日ラジオ放送はあったがよくわからない。後で站(駅)長が
    「日本が敗けたんだ アメリカに降参したんだ」 と教えてくれました。
    このときから 日本人社員と中国社員の立場が逆転しました。
    女子寮は危険なので、私と山下さんもう一人は站長宅に移りました。

    山下高子さんの恋
    当時はまだ済南の街は平穏でした。私たちは外出するときは中国服を着て歩きました。
    写真館に入ったとき、珍しくも背広姿の3人の先客がありました。
    その中の一人が「お嬢さん写してあげましょう」と流暢な日本語で話しかけて来ました。
    返事をする間もなく手にした高級カメラで連写されました。まるで映画のシーンのようでした。

    写真送るからと住まいを求められて差し出された名刺をみてビックリしました。
    第13基地航空隊所属の士官なのです。王さんは日本留学出身。羅賢銘さんはアメリカ留学出のパイロット。

    翌日、航空士官の服装をして王さんが運転し、羅さんを座席に乗せたサイドカーでやってきました。
    それからは彼らは度々私たちが住む站長宅を訪ねてきました。
    その都度高価な化粧品などをもって・・・

    ある時からなんと、航空隊長までが加わるようになりました。
    そしてその隊長は「私を妻に」と站長に申し込んだのです。
    站長は、私には結婚する相手がいるからと断られたのですが、相当執拗に迫っていた様子です。

    もう一人の羅さんは山下さんを妻にと言うことです。
    何とその時、山下さんと羅さんはすでに親しくつきあっていたようでした。
    敗戦国である日本の女性と、戦勝国の中国の青年航空士官との恋です。ロマンチックだと思いました。
    この結末は、後で述べます。

    引 き 揚 げ (逃 避 行) 

    昭和21年1月引き揚げの準備が始まりました。
    引き揚げの荷物は定められた以外だけしか持てません。あとは不要品として処分することになり、
    それらを集めてその準備をしているところへ大勢の中国人がなだれ込んできて
    、奪略に近い形で全部持ち去ってゆきました。

    2月28日、済南站に集合、出発。乗り物はアンペラを敷いた有蓋の貨物列車です。
    一緒に働いていた中国人達が次々集まってくれて、口々に引き留めてくれました。
    「帰らないで 日本は今食べるものがないから、帰ったら餓死するよ」
    そして沢山の食べ物を差し入れてくれました。  嬉しかった。  −再見・再見−
    私が結婚の約束をした初恋の人 森宮さん、軍隊にはいったまま 音信不通。 断腸の思いでした。

    普通は3時間で行ける張店站まで丸1日かかって到着。
    それまでに、停車する度に中国人が貨車の扉を叩いて日本人の名前を呼ぶのです。
    応じて顔を出すと、引きずりおろされて半殺しに近い暴行を受けていました。
    理由は、それまでその人に、馬鹿にされた、重労働させられた という中国人の恨みからです。

    私たちの引き揚げグループは梯団と言って、総466名を5班に分け馬車37台で構成していました。
    張店站から終着点の青島までは約300キロ、ここからは徒歩です。

    張店站を出発して数時間後、いつのまにか寄ってきた中国人に襲撃され荷物を奪われました。
    抵抗すれば命に関わります。為すがままでした。荷物が無くなるまで何回も繰り返すのです。
    行程の半分も歩かない内に荷物は背中に背負ったわずかばかりの食料と水と薬だけになりました。
    極度の疲労にそれさえ重くなりました。

    食事時はは西部劇のように馬車の間にテントを張り、水ばかりの雑穀のお粥です。
    女性の用便は、男性が地面に溝を掘り後ろ向きになって囲ってくれる。羞恥心はなくなっていました。
    事実、恥ずかしいからと言って離れて用を足しに行った女性がそのまま行方不明になりました。

    一番困ったのは水不足です。水を手に入れると先ず顔を洗い、その水でお茶碗を洗う。
    汚いとなんて言ってはおれない。
    この梯団に幼い子ども達が大勢居たのにその泣き声をあまり聞きませんでした。

    私はこの逃避行で同胞愛の素晴らしさを感じました。
    そして、どんな逆境にあっても耐えて行ける逞しさを身につけたと思います。。

    青島からはアメリカ海軍のLST(上陸用舟艇)に乗せられて日本に向かいました。

    朝鮮半島の南済州島が小さく見えかかった頃、私が甲板で朝の海を眺めていたときです。
    船長さんらしい人と3人の船員さん、それになにやら小さな包みを持った女性の姿が見えました。
    逃避行の間中、乳が出ないのに乳房を子どもに与えていた女性です。
    それを見ながらどうにも出来なかった私でした・・・

    船員の一人がつきだした板の上に、彼女の抱いていた白い包みを受けとって載せました。
    船の汽笛を合図にその包みは板の上を滑って海の中に落下しました。

    彼女はいつまでも海面を眺めていました。そばにいた数人の女性達は
    「よかったね」  彼女は小さく頷いていました。
    子どもを亡くした親に言う言葉だろうか? と疑いましたが
    いや 私達のように極めつけの環境を経てきた者にしか通じない言葉であることを理解しました。

    長くてかった引き揚げの道(逃避行)やっと終わりました。

   山下高子さんの消息 

    8月の或る朝、2月に済南で別れた山下高子さんがワンピース姿で訪ねて来ました。
    彼女は中国航空隊士官(羅さん)と恋に落ち残留を選んだはずなのに、どうしたの? です。
    そうです。彼に第一夫人がいたことを知ったプライドの高い彼女はそれに耐えられなかったのです。

    2週間ほど滞在して彼女は実家のある金沢へ帰りました。
    翌年4月「タカコシス」の電報が来ました。

    
   ※  私のこの抜粋編は、ここで終わります。

      著者 勝間満里恵さんの本の内容は、旅立ち、済南で、引き揚げ、そして戦後編など、
      乙女時代に過ごした波乱の人生、そして当時の世相を実に詳細に記されています。

      戦争を体験した者として再びあの悲惨なことは繰り返したくありません。
      これからは永久に 平和であることを祈ります。



     私の華北交通時代もご覧下さい



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