「にしうら」からこんにちは
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みたり・きいたり 『主一人』 X 

主一人 書き込み帳

次をそれぞれクリックして頂くと各内容をご覧頂けます。 

はじめに・目次一覧 ・ T 見たり聞いたり ・ U 旅行記 中国 ・ V 旅行記 シルクロード 
 W 体験 ・ X 恋物語 ・ Y 出会い ・ Z 時事刻々 ・ \ 童謡50曲国  


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 恋 物 語 





   軍国少年の恋  U


    軍国少年の初恋物語   

    昭和18年夏、20才になった私は徴兵検査を受け、翌年1月に軍隊に入ることが決まりました。
    その頃に恋をしていました。初恋です。

    場所は、中国山東省済南市です。済南市は2600年前、中国の春秋時代、済の国の首都です。 
    当時私は華北交通済南鉄路局膠済線坊子(ぼうし)機務段(機関区)に勤務していました。

    済南在住の彼女、名前は「吉田 秀子」さん。色の白い、目の大きな、お下げ髪のお嬢さんです。
    済南女学校5年生、17才。当時の人気女優高峯秀子に面影が似ています。

    済南での家は、お母さんは内地の留守宅、お父さんと3人姉妹、その長女です。
    お父さんは、同じ済南鉄路局膠済線張店(ちょうてん)へ単身赴任の駅長さん。月に2〜3回の帰宅です。

    済南在住の先輩の宿舎を訪れたとき、近所の同じ社宅に住む彼女達が遊びに来ていました。
    すぐ仲良しになりました。私のことを「お兄ちゃん」って呼んでくれるのですから。
    末っ子で育った私、いっぺんに妹が3人も出来たので至極うれしかった。最高!
    一番下の妹は小学校6年生、私にべったりです。当の彼女は少し控えめ。
    新しい妹ができたのに、しょっちゅう会うことは出来ません。

    私の勤務している坊子(ぼうし)機務段から済南市まで約200キロ離れています。
    年に数回がせいぜいです。でも何回か会ううちに惹かれてゆきました。
    彼女の方も好意をよせてくれているようです。小学生のときのように片思いではありません。
    だから互いに好きあった これが初恋です。

    その年の秋、3人姉妹を連れて済南市の旧城にある公園へ遊びに行きました。
    家から遠いので、洋車という人力車を4台連ねて走りました。
    城内には、滾々と水が湧き出る大明湖という大きな池があります。
    池には大きな蓮が浮かび、周りにはしだれ柳。風情のある公園です。

    私たちが城門を入ったところにある大きな楼閣の高い石段を登りかけたとき
    「こらーっ おまえらこの非常時をなんと心得ておるか」
    楼閣に立って警備している歩哨の怒声が飛んできました。

    そうです。当時は男女が連れだって歩くことすら不謹慎なことだったのです。
    ましてや 私たち手をつないでいたのですから。
    あわてて歩哨の目に付かないところへとコースを変えました。
    広い公園の中を妹二人は駆け回っていたので、私達は初めてのデートをゆっくり味わいました。

    その日の夕食は彼女の家でご馳走になりました。久しぶりの家族団欒の雰囲気です。満足。
    食事のあと4人でトランプなどゲームをして遅くまで楽しみました。
    夜も更け妹たちが寝室に去ったあと、ソファーには彼女と二人だけです。話の中身は覚えていません。

    気がつくと外が明るくなりかけていました。いつしかうとうとしたようです。
    彼女は私の肩に頭をもたれて眠っています。窓から差し込む朝の陽を浴びたその顔は清らかです。
    思わずそっと額に唇を付けました。その気配に目を覚ました彼女を見て一層愛おしく覚えました。

    やがて妹たちも起きてきて
    「お兄ちゃん達 寝なかったの?」   「うん」
    ずーっとずーっとあとになって思いました。
    好きあっている二人。抱き合っても良かったのでは? せめて口付けくらいは…
    軍隊に入る身にとって。これが最初で最後のチャンスだったのに…。

    軍国少年として育った私には、そんな知恵もなかったようです。

    その年の暮れ、軍隊に入るため内地に帰る私は、最後のお別れに訪問しました。
    彼女のお父さんには初めてお会いしました。厳格そうな人でした。
    彼女はお父さんの後ろに座ってじっと私を見つめたまま、とうとう言葉を交わす機会もなく別れました。

    軍隊にいるとき「父に勧められて結婚をしたけれど離婚した」との手紙を貰いました。

    そして昭和20年8月15日、 遵化市(北京と万里の長城の中間)の駐屯地で終戦を知った。

    日本は戦争に負けたんです。中国では戦争中威張っていた日本人。これからどうなるのだろうか。
    当然大混乱が予想されます。真っ先に彼女の消息が気がかりでした。

    ここで除隊(軍務離脱)して済南へ行って彼女を助けたい。部隊長に懇願しましたが許されなかった。
    いっそ脱走して中国人に化け、400キロ歩いてでも行こうかと必死で考えましたが。
    結局、小説みたいなことは不可能でした。

    私は復員帰国しました。彼女は無事帰国しただろうか。内地の留守宅は東京だと聞いていたが。
    その後何回か東京に足を運んで手がかりを求めたが、どうにもならなかった。
    年月は経つ。経った。 プッツリ。

    ところが、私が平成11年5月団体旅行で済南へ行った時のことをホームページに入力したら、
    その翌年知らない方からメールを貰った。

    その人のお母さんが少女時代に済南にいたという。
    「お兄さん達が、3人姉妹のお風呂を覗こうとして壁を壊してお母さん叱られた」 と。
    ドキリとした。まさしくその姉妹だ。しかしその後の消息は分かっていない。

    またもや プッツリ。     

    華北交通のこと済南のこと坊子のこと、ご存じの方メール下さい。
    吉田 秀子さん(現75才)の消息をご存じの方メール下さい。

   


    プラトニックラブ T


    ロングドライブ     

    平成14年10月26日東京オフ会に参加した後、茨城県に住むプラトニックラブのパートナーを訪れました。
    京都から離れること車で約700キロ 昨年5月に山陰地方へ一緒した以来の出会いなんです。
    久しぶりの再会なので実によく感情がこもりました。

    翌日 そこを出発、東北・磐越自動車道を経て新潟へ。新潟ではとうとう雨でした。
    佐渡島へ向かう午後6時半の連絡船に乗船、途中から雨風がだんだんひどくなり船は大揺れ
    2等船室は雑魚寝の客で満員でした。私船に乗るのは九州へ行ったカーフェリー以来30年ぶり
    隣り合わせた乗客が毛布を取りに行ってくれたり会話が出来たり、いいもんですね。
    乗ること2時間半佐渡島の両津港に着いたのが午後の9時、
    港の出入りに約20分航行時間2時間あまり時速約30キロとして、新潟から佐渡までは約60キロでしょうか。

    両津港に降りたときは、文字通り暴雨風でした。真っ暗な中の海岸通りを走るのは心細いものです。
    その間は緊張の連続。途中暗闇に波の花の舞うのが見えました。
    ホテル到着が10時、彼女と共にほっとしましたが 二人ともさすがにぐったり。

    次の日も暴雨風です。久しぶりにホテルから日本海の荒波を観る事が出来ました。



    私も彼女も富山県の海岸の町で育ったので、日本海の荒波を観るのは珍しくしくはありません
    でもここは同じ日本海でも本土から離れた海の中です。荒波はまともにぶつかっていました。壮観です。

    昨夜と同じ道を通って両津港に向かいました。再び波の花の舞うのが見えました。



    これが私の観たかった日本海です。、荒れ狂う波、来た甲斐がありました、しかも風と雨、暴風雨。納得です。

    帰りの新潟行きカーフェリーは、午前中欠航していたので車も乗客も満員です。
    無数のカモメが見送ってくれました。(本当は乗客の投げる餌を求めて群がっていたのですが・・・)



    外洋へ出たとき虹が見えましたしかもダブルです。



    これでこれから晴れると思ったのですが・・・  

    無事佐渡島行きは終えました。観光は出来ず終いでしたが・・・。
    新潟から北陸道を通って富山・金沢を経て山代温泉に向かいました。
    相変わらず雨風は強く、暴風雨の中を走りました。初めての経験です。

    京都に向けて走った3日目は 雨は小降り それでも時々強い雨風でした。
    着いた京都は晴れていました。
    この3日間、天候には恵まれない本当に暴雨風の中のドライブです。
    わたしにとってははじめてのこと、勿論同乗の彼女にとっても・・・

    京都の私の家で一泊して4日目は淡路島へ走りました。今度は快晴です。

    佐渡島と山代行きは何れも到着が、雨の中を夜だったので   
    あたかも 夜男と雨女 の組み合わせだと大笑いしました。

 
    5日目の昼過ぎ京都へ帰着。途中寄ったデパートで彼女はしゃれたセーターを買ってくれました。
    ドライブ中でもホテルでもいろんなおしゃべりをしました。
    お互いの過去や今の様子など、本当に残すことなくおしゃべりをしました。
    あらためてお互いを良く知りあいました。楽しい想い出になりました。

    私にとっては、10月25日に京都を出発して31日に帰着した7日間、実に 2000キロ
    この間夜はぐっすり休んでいるので不思議と疲れも出ず、毎朝快調でした。

    70代最後のロングドライブ プラトニックラブのパートーナーと一緒にです。達成感

    80歳になってもまだまだ走れそうです。自信です。



    同 窓 会 

    40数年ぶりに同窓会の案内をもらった。
    ○○○尋常小学校昭和10年卒業同窓生

    真っ先に思い浮かべたのは、小学校1・2年生の頃、いつも鬼ごっこしたり、
    追っかけっこしたり、一緒に遊んだ色白で小柄なおかっぱ頭の可愛い女の子「すみちゃん」でした。

    3年生からは男女別教室なので学校では遊べなかったけれど、家が近いから
    よく遊んだ。私はほかの誰よりも彼女が好きだったから。
    勿論、当時は恋なんて意識はない。好きだって女の子って感じ。
    あとになってこれを初恋と位置づけた。だけど片思いだったみたい。

    小学校を卒業してからは、音信不通。彼女は出席するのだろうか。

    集まった同級生、みんなそれ相当のおじさんやおばさんになっていた。
    そのなかにあって品の良いレディタイプ、すみちゃんだ。
    彼女は都会(東京)暮らししている。と
    「すみちゃんでしょう」
    「内田さんね」 お互いすぐわかった。
    もっとドラマチックな台詞言えなかったものか、後悔。

    おしゃべりは、どうしても男性女性それぞれのグループで弾む。
    まじり合うことはない。すみちゃんと話す機会が無いのがもどかしい。
    ところが、宴会の席は籤にもかかわらず彼女と並ぶことが出来た。神に感謝。

    今日の同窓会の世話役してくれた親友のよっちゃん、わたしの気持ちを薄々知っている。
    「隣同士で座れて良かったな 彼女相変わらず美人だし」
    「うん」
    実は彼、すみちゃんとは、親同士が決めた許嫁だった。結ばれなかったけれど今でも関心は充分ある。
    心の奥では彼と私、張り合っていたようだ。

    その後何回かの同窓会で会うたびに、話のリズムが不思議と一致した。
    彼女も私に親しみを見せ始めた。

      彼女が京都へ来た

    お友達が関西へ旅行するって言うの、私同行するけど別行動で京都へ行ってもいいかしら」
    「いいよ  一泊するつもりでね」 うっかり言葉にした。
    「多分そうすると思うわ」 素直な返事にほっとした。

    10年前のこと。彼女が京都へ来ると言う。
    正直あわてた。彼女には夫がいる。私にも寝たっきりの妻がいる。
    こんなおつき合いしてもよいのだろうか?

    私は、結婚して近所に住んでいる娘に、今まで何でも話し合い相談してきた。
    すみちゃんのことも。その彼女が京都に来ると言う。娘はなんと思うのだろう。
    「ママの介護の息抜きに、ちょっとくらい楽しんだっていいんじゃない 
    一泊するんだったら ビジネスホテルへ案内したら」
    実にクールな返事。

    お決まりの京都見物を一通り、中でも雨上がりの大原・三千院 は風情があった。

    庭園を歩きながら、いつしか腕を組み手を握り合っていた。
    「よっちゃんね、手を握りに来たことあるのよ。内田さんとは初めてね」
    初恋が、想い出だけではなく実ったって感じ。ゲット。
    翌日、ビジネスホテルに泊まった彼女を、我が家に案内する。妻は入院している。

    家では、娘が3月前に産まれた赤ん坊を抱いて待っていてくれた。
    彼女は私の初孫を、愛おしそうにしっかり抱いてくれた。

    それから数年後に彼女の夫が他界され、その数年後、私の妻も他界した。
    寝たっきりだった妻の介護については、 「主夫してます」  で紹介してます。


     私が彼女を訪問した。

    平成11年10月、私がすみちゃんを訪問した。
    このころはお互いに好きだと言う感情は定着している。

    京都から700キロの関東、明るいうち着く予定だったのに、案の定道に迷って夜になった。
    ここで辿り着けなかったら一生会えない、と悲壮な思いだった。

    ところが近所に住む彼女の息子さんから携帯に連絡が入った。迎えに行くという。助かった。
    考えてみれば、母親が好きになった人の訪問を受け入れ、ご馳走を作って歓迎してくれる。
    なんて素直な息子さんだろうと思った。感謝。嬉しかった。

    余談ですが、先日NHKの「ちゅらさん」のドラマで、
    アパートの管理人さんの女性と、その住人の男性(ともに70歳台?)が好き会った同士として交際している。
    そこえ登場した男性の息子が
    「いい年してて今さら女を好きになるなんて」
    さも軽蔑するような台詞。ホローがあるのかと思ったらそれで切り捨て。
    作者の感覚に疑問を持つと同時に、それが世間の常識なのかと思うと寂しかった。

    その後のドラマの進展では、
    その男性が息子に自分の全財産を渡して、身一つで女性のところへ転がり込んできた。
    女性は大歓迎して受け入れている。周囲も拍手していた。
    いかに女性に生活力があるからと言って、分別をわきまえた男性が女性に身を寄せる? 無責任な話です。
    私はそんな関係を軽蔑します。

    その晩は彼女の家で一泊。翌日から陸奥花巻温泉までドライブです。

    花巻温泉のホテルでは同室です。彼女は一瞬ひるんだようでした。
    その晩、二人はそれぞれの思いを率直に話し合いました。

    男と女 幾つになっても互いに恋し合うこといいことだと思う。
    そして、恋の究極は体の結びつきがあってこそ達せられる、という見方もある。
    それもいい。しかし、体の結び合いがあるからにはどんなことがあっても、
    互いに責任を持たなければいけない。それなくしての行動ならば動物と同じだと思う。

    私達は小学校の幼馴染みが縁で今互い好きになった。またそれぞれ伴侶をなくした。
    物理的には結婚も出来る。がお互いはそのつもりは ない。
    また彼女の息子さんや私の娘は、私達の関係をピユアにとらえて理解し信頼してくれている。
    これを裏切ることはできない。

    だから私達は、心の結びつきだけで満足しよう。
    その方が長続きすることになるから。いわゆるプラトニックラブです。

    彼女はベッドに入ってからしばらくは寝付けなったようです。
    でも私が先にに寝入ったのを感じてぐっすり眠れた。と翌朝
    「内田さんって、想像していた通りの人だった」
    「そうかなー だって 大好きなすみちゃんを失いたくないもん」

    すがすがしい朝をむかえました。
    帰り道に中尊寺を訪ねたときは、京都三千院の時と同じく なぜか雨でした。

    考えてみれば女性と二人っきりで遠乗りなんて初めてです。

    妻が健在の頃はよく遠乗りしてました。でも二人っきりではないんです。
    一人娘を留守番させられなくっていつもうしろの席にいます。いわゆるお邪魔虫。
    それが高校を卒業した。もう留守番させられる。これからは二人だけのドライブを、
    と楽しみにしていた矢先に、妻は脳出血で倒れそれっきり寝たきり状態に。
    その妻も亡くなり、今はペンダントの中に収まっています。

    正直、私の心境は複雑です。
    愛していた妻が、記憶喪失、寝たきり、再起不能、そして亡くなった。
    なのにもう他の女性を愛している。 
    「ママは認めてくれるよ 割り切っっていいんじゃない?」
    娘は言ってくれるんですが。心に引っかかるのも事実です。



      同窓会での帰り道

    平成12年10月21日同窓会が開催される。
    すみちゃんも参加するという。勿論私も参加した。
    往きは息子さんに送ってもらうと、では私が帰りを送ることにして……。

    同窓会の参加は少し減ったようだ。宴会の席は抽選で決めるのに隣り合った。偶然とは言えいつもなので不思議だ。
    隠し芸が出る。カラオケも出る。私も一曲。宴会の後は一室に集まってお喋り。これも楽しい一時だ。

    翌朝、すみちゃんの列車の時間があるから、そして私は駅まで送るんだ、ということにして・・・
    私とすみちゃんは皆と別れて一足先にホテルを出発。
    見送ってくれる皆の前では、すみちゃんを車の客席に乗せて、途中で助手席に誘導した。誤解を招かないために。

    そのまま北陸自動車道を東へ、途中名所”親不知”の海岸で休憩。直江津から南下一路軽井沢へ。
    軽井沢ではきゅうに冷え込んできたのか霧の中のドライブになった。危険だけどロマンチックな雰囲気を味わう。

    軽井沢のヒュッテという言葉にあこがれて、インターネットで予約しておいたが少々貧弱で期待はずれだった。
    でも料理は一流。納得した。

    2日目、東京に午後2時に着いた。このまますみちゃんの家まであと2時間。名残惜しい。東京でもう一泊を決めた。
    予約なしでホテルを探すのは大変なんだ。3つ満員を理由に断られ、4つ目で丸の内ホテルでようやく一室獲得。
    ここ丸の内ホテルは、創業75年立て替えのため今年11月までの営業という。さいごのチャンスだったのだ。

    その晩は出歩くのをやめて、雨の東京の夜景を窓から見下ろしながら初めて口づけを交わした。
    昨年に続いて今年も二人でドライブできた。年に1回それでもいい。これが離れているもの同士のプラトニックラブ。

    翌日、東京を一週して彼女の住む茨城県へ、そこで一服して一人で京都までの帰途についた。
    帰りは東名高速ではなく1号線を走った。箱根の難所。東海の海岸線。
    素晴らしい景色や人情をゆっくり味会うことが出来た。

   彼女が再び京都を訪問



    平成13年5月18日すみちゃんが再び京都を訪れた。

    彼女の小学校の恩師(女性93才)が滋賀県守山に住んでいる。電話でやりとりしているうちにぜひ会いたいとおっしゃる。
    守山なら京都から近い、私が案内するからを口実に、周囲にはその理由で実現した。本音は私達が会いたいから

    先生はお元気だった。非常に喜んでいただいた。
    私達の関係を聞かれたので「初恋同士」なんです、の答えに祝福して頂いた。
    その晩、大津市に住む私の兄夫婦と会食した

    今回の彼女の来訪は、割り切って恋人同士(と言ってもいいよね)としての再会です。
    私の家に泊めました。娘は前もってお布団の段取りなど世話をしてくれました。
    夕食は私の得意料理の一つ、肉じゃがとピクルス(茄子・胡瓜・玉葱・トマトをスライスして塩漬け即席です)で、もてなしました。

    21日から2泊3日、山陰方面へドライブ。玉造温泉、城之崎温泉、天橋立、ここでは雨でした。
    25日新幹線の京都駅ホームで…、あっという間の一週間でした。

    京都と関東、700キロの隔たりは遠すぎます。でもこれでいいのかもしれません。
    溺れないためにも、プラトニックラブを長続きさせるためにも。
    その後は電話でのおつき合いです。

    異性を好きになる。それだけで気分の高揚を覚え、気分の高揚は脳神経に刺激を与え、体中の活力を促す。
    年齢に関わりなく、彼女も同じ考えです
    この炎いつまでも消したくありません。

      このページを プリントして彼女に送りました。
    大変に喜んでくれた彼女は、これを息子さんに見せたそうです。
    それを聞いたとき、冒険だなー と思いました。
    案の定 それを見た息子さんの表情は険しく 何も返事をしないで・・・
    彼女は悩んだそうです。後悔したそうです。でしょうね いくら嬉しかったからと言って 
    数日後 「母さんがそれで楽しいんだったら いいんじゃない」
    理解してくれたそうです。信頼しあった親子像の姿がありました。





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