14-9-27 更新
はじめに ご挨拶と目次をご案内しています
華 北 交 通
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済 友 会 の 集 い
平成15年6月 華北交通の済南鉄路局関係に勤務して人たちの集いがありました。
その幹事役をしている札幌在住、元工務部の渋谷さんから6月3〜5日会合の案内を貰いました。
私は今までこういう集いのあることを全く知らなかったのです。
順序は 、私が平成11年中国を旅行して済南を訪れたことを載せたHPをみて
昨年6月文芸社から連絡を貰いました。
同じく済南にいた勝間万里子さんと言う女性が、その体験記を出版されるという
さっそく会いに行きました。全く面識のない彼女でしたが直ぐにうち解けて当時の想い出を語り合いました。
その本の内容はこちらでご覧下さい。「玄海の波濤を超えて」
彼女から済南会というグループのあることを知りその9月開催の集いに出席しました。
その時は欠席されましたが、坊子站(駅)にいたという中山さんを知りました。
今回はその中山さんが幹事さんに連絡して私に案内があったのです。
聞けばこの集いは、昭和39年に始まって以来毎年日本中のあちらこちらで開催している由
今年で41回目とか。当日も北は北海道から南は九州に住んでいる方、28めいの参加がありました。
今回は 愛知県三河湾に面した蒲郡の西浦温泉です。
私一人が新入りだったので挨拶させられました。
誰も顔見知りは無かったのですが、そこは昔済南での懐かしい話で盛りだくさん。
一人一人の話を聞きました。女性の方々の5・6人のグループの前に座ったとき
皆さん済南女学校を卒業して直ぐに済南鉄路局のタイピストに採用された元お嬢さん方でした。
済南女学校と言えば、私の初恋の人の出身校です。もしや知ってる方がと思って・・・
そうなんです。皆さん知っていました。美人だった彼女は下級生の憧れだったようです。
しかも戦後でも同窓会にも出席していてよく知ってる方がいたんです。
60年来あんなに求めていた彼女の消息が今わかったのです。
順を追ってゆけばそういうことなんですが、私にとってこれは奇跡としか言いようがありません。
私はしばらく声がつまって言葉が出ませんでした。感動です。神に感謝しました。
彼女は終戦の混乱をくぐり抜け日本にたどりつき今日まで生き抜いてきたんです。
それを思い浮かべるとき涙が出ました。会いたい 今すぐ会いたい!会って抱きしめたい。
でも住所の確認は同窓会名簿を送ってもらってからになりました。
当時の様子は 初恋物語 「軍国少年の恋」をご覧下さい。
翌日は雨の中をフェリーで鳥羽に渡り、大王崎の灯台(73の階段を昇りました)を見学後
石鏡のホテルに泊まりました。1日目の昨晩はおしゃべりが殆どでしたが、
2日目の今日はカラオケが飛び出し賑やかでした。私も歌いました。
3日目は伊勢神宮を参拝。二見浦の夫婦島観光、名古屋駅に戻って解散しました。
灯台73の階段を昇った トヨタの自動車運搬船
露天風呂でご満足
華北交通 時代 昭和15年3月〜同18年12月(地名など、当時の呼称をご理解下さい)
は じ め に
平原を走る馬賊の姿に魅せられて 大陸を目指す
華北交通株式会社は、南満州鉄道株式会社(満鉄)の姉妹会社です。
満鉄は旧満州の鉄道を運営し、華北交通は旧北支(揚子江以北万里の長城まで)の担当です。
当時満州は全面的に開発途上だったので、何十万の日本人が移住して農地や工業になどに活躍していました。
ですから鉄道はいわば仕上がった感覚でした。
北支は戦闘地域の一部としての感覚があり、鉄道の普及もこれからという段階です。
当初私は満鉄を志願したのですが、行って初めて華北交通に配属されていたことを知りました。
勿論満鉄とか華北交通と言う区別さえしらないわけですから何とも思いませんでした。
旧制中等学校生である私は、母子家庭でもあり経済的に上級学校に進む環境では無かった。
4年生の時、親友が陸軍士官学校を目指したことに刺激されて、私は海軍経理学校を目指しました。
彼は見事合格したのですが、私は体格ではねられました。
翌5年生の時も挑戦しましたが、商業学校生の私では学力不足で失敗しました。
就職選びを考えているその頃、満州開拓移民を募集し鼓舞するためか、大陸映画が盛んでした。
中でも、李香蘭主演の満鉄を舞台にした大陸映画。満州の平原を駆けめぐる馬賊の姿。
魅せられました。軍国少年真っ盛りの年頃でした。
ところが、家は二人兄弟の兄は応召して不在。他に姉二人。私は当時唯一の男手です。
母は悩んだようですが、大陸行き認めてくれました。私には人生の岐路となった決断です。
母はその30年前、一人で朝鮮に渡り当時駅長をしていた父と結ばれて私たちを生んでくれたのです。
当時のエピソードは別の機会に譲ります。
父が亡くなるまでの10年ほどの幸せを、母なりに子どもの夢に託したのかも知れません。
大陸行きも決まって一週間前、こんな事がありました。
私の出立を祝ってくれた友達数人と、今で言うコンパをしました。勿論アルコール抜きです。
帰りが少し遅れました。母には無断だったので説教されました。
「今からそんなことでは、一人生活が心配だ。大陸行きをやめなさい。」 そして
社会人としての責任感をこんこんと諭されたのです。肝に銘じました。今でも忘れず守っています。
集 団 就 職
昭和15年3月1日(まもなく17歳です)一緒に旅立つ仲間と共に、大勢の友達に見送られて神戸港を出発です。
私こんな大きな汽船に乗るのは初めてです。テープを投げたのもはじめての最後です。
感傷はありませんでした。
大陸での初めての上陸地点は満州の大連です。ここで華北交通行きを知らされました。
大連から北上、奉天(今の審陽)経由山海関で万里の長城をくぐりいよいよ北支です。緊張です。
そのころには集団就職の仲間とも友達になり、互いに出身地の話も聞きました。
北京に着いて華北交通内の各鉄路局(鉄道局)への配属が知らされ私は済南鉄路局に決まりました。
済南鉄路局は北京・天津の南約400キロの地点です。
鉄路局の中にはいろんな部署があります。私の勤務部署は機関車を取り扱う所です。
済南機務段(00段とは、00団の中国語です)と言い、そこの事務員になりました。
事務所には約15・6名、日本人と中国人半々です。個人用の机椅子に座って初めて勤め人としての実感。
一緒に集団就職した仲間も、それぞれに配置が決まって散り散りとなり連絡が途絶えました。
済 南 検 車 段 昭和15年3月〜同16年4月
済南市は山東省の省都、2600年前には済の国の都として栄えました。
今は商業工業都市であり交通の要でもある。市内の道路は碁盤の目のように整然としています。
旧城内の大明湖では滾々と泉がわき出しており、泉の城と言われています。
アカシアの花咲く季節には私もよく訪れました。
済南検車段は客車や貨車の整備をするところです。
私はそこの事務方となり庶務係として勤務することになりました。
男ばかりの職場なので雑用は新人の私の仕事かと思ったら、中国人がいるので全て彼らがやっていました。
私は商業学校出身なので中国語を1年間習いました。でも会話は実際には殆ど通用しません。
中国人の方が日本語を覚えて会話するので、日本人は中国語を覚えなくていいんです。
だから中語人を理解する事が出来なかった。全て一方的に押しつけてきたのです。驕りです。
この驕りが敗戦になって引き上げるときにしっぺ返しとなってあらわれました。
中国人の仲の良い友達が出来ました。二つ年上の王乃恭君です。済南を離れてから音信不通です。
宿舎には雑用の一切をやっている中国人ボーイがいます。その彼が冬でも素っ裸になって
布団にくるまって寝ることを知りました。聞けば中国人の習慣だそうでした。
一年が経ちました。その頃には私も給与計算の一部を任されるようになっていました。
その時、転勤命令が出ました。(17歳)
新しい勤務先は 済南から東へ200キロ青島との中間点 坊子の機務段です。
坊 子 機 務 段 昭和16年4月〜同18年12月
坊子は、済南のような大都会とは比較にならない小さな町ですが、何故か軍隊の大部隊が駐留し
鉄道機関としても済南・青島に次ぐ重要な位置にあったようです。
機務段とは機関車の整備や運転をするところです。車庫には大きな機関車が並んでいて壮観でした。
社会人になって、済南でようやく慣れた頃にまた知らない土地です。心細い限りでした。
なのに先任者が転出したので、私は50名近い日本人職員の給与計算の責任者になりました。
数百名いる中国人職員の給与計算は中国人職員が担当し、私がそれも統括させられました。
仕事は済南鉄路局会計部局と直結します。そのおかげでよく済南市に出帳する機会を得ました。
急行列車から飛び降りて九死に一生を得る。
ある時済南からの帰り、坊子着午前2時の予定なんですが寝過ごしました。慌てました。
急行なので次は150キロ先の終着駅の青島です。折り返して帰るとすれば夕方になります。
それではその日にやらなければならない仕事が出来ません。
次の駅を通過するときデッキに立ってプラットホームを見たとき飛び降りが出来ると思った。
私はいつも走っている機関車に飛び乗り飛び降りは平気だったので、
列車が二つ目の駅に差しかかった時のスピードを見て、いけるとおもったのですが
プラットホームの中頃からスピードが速くなりました。向かい側には貨物列車が停まっています。
それに乗って帰れば時間的に間に合います。思い切って飛び降りました。
そして動き出している貨物列車の最後尾、車掌車に飛び乗りました。それから気を失ったようです。
どれくらい時間が経ったのでしょうか。気が付いたときは貨物列車は何もなかったように動いていました。
中国人車掌にこの列車の行き先を確かめて安心しました。頭が痛い。手をやると血がべっとり。
明け方、私は帰るべき坊子駅に着き、直ぐに診療所へ行き手当をして貰いました。
看護婦さんは私の頭皮を縫い合わせながら
「どうしたの? 頭蓋骨が陥没してるわよ!」 (今でも陥没した痕がわかります。)
プラットホームに立っている柱に激突したようです。まかり間違えば即死だったのです。
その日 予定通り仕事をしました。
済南出張で時間の余裕が出来た時、先輩宅を訪問すると近くに住む3人姉妹が遊びに来ていました。
たちまち仲良しになり、私はのその長女(3歳年下)に恋をしました。
このことは「初恋物語−軍国少年の恋」と題して詳しく書きました こちら をごらんください。
坊子機務段在勤中は、私にとってはまさに青春真っ最中です。
当時の電話は女性交換手が居て手動交換です。その交換手の一人とも友達になりました。
坊子ではすぐ噂になってはまずいので、休みを利用して、青島へ遊びに行きました。
青島はドイツ人が開発しただけあって済南と違った異国風を感じました。
坊子機務段の構内には大きな貯水プールありました。夏は格好の泳ぎ場でした。
冬は全面に氷が張るのでスケート遊びに利用しました。
その他卓球・玉突き、囲碁・将棋何でも覚えました。が花札と麻雀には手を出しませんでした。
構内には本格的な土俵が造ってあって、小柄な私ですが挑戦したところ結構相手にしてもらえました。
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素人劇団で女形を演じました | |
坊子機務段にはいろんな人がいました。なんと素人ながら脚本書いて演出も手がける人が・・・。
その人を中心に「アカシア劇団」を編成して、年に数回兵隊さんを慰問していました。
私も着任早々劇団に組み入れられ、女形の役が割り当てられました。
はじめはものすごく抵抗があって躊躇したのですが、一番若いからと、否応なしに・・・
衣装は妻帯で着任している先輩の奥さんが提供されていました。化粧もその奥さんにして貰いました。
眉を描いたり口紅を引くときは手がふるえるからと、胸をぴったり合わせての作業です。
どっきとしましたがお任せです。いつの間にか自分でも化粧が出来るようになっていました。
はじめのお芝居はコミカルものが殆どで、服装や化粧は当時の娘さん風。
かわいい! と評判でした。ある時一人の将校が楽屋に入ってきて
「君 どこの娘?(どこのお店で接客しいてる娘の意味)」 咄嗟なので
「僕ですか?」 の返事に「・・・???」その将校は黙って出て行きました。
「私ですか?」 って女らしく返事してたら、その将校に抱いてもらえたのに って。
あとでみんなんで 大笑いしました。
私の娘役は、観客からは本当の女だと思われていたようです。
女形を超えて女優?としての評価を得ていたことには 満足です。
本格的なお芝居にも取り組みました。題して「軍国子守歌」です。
概略は 乳飲み児を抱えて、出征した夫、その留守を守る健気な妻の姿。
やがて夫の戦死。白木の箱に入った遺骨を抱き一人になってから泣く妻の姿。 です。
私は、乳飲み児の私をかかえ病没した父の遺骸に取りすがったであろう母のの姿を想像して
精一杯にその妻の役を演じました。300人は入る小さな土間の芝居小屋。びっしりの兵隊さんや民間人。
観客の中からすすり泣きがいっぱいに聞こえてきました。終わりには日頃いかめしい部隊長も
ハンカチで目を拭っているのが見えました。私も本当に泣きながら演じていました。
坊子機務段での生活はまさに私の青春でした
華北交通には青年を対象に組織がありました。華北交通青年隊です。主に軍事訓練を行っていました。
その隊歌です。
1 ゴビの砂漠に風あれて 黄塵空を蔽うとも 大地を踏んでゆるぎなく
隊伍堂々進むべし 我等鉄道青年の 見よ堅剛の意気と熱
2 黄砂の水のゆくところ 興亡古来常なきも 歴史をここに更めて
世紀の楽土をうちたてむ 我等鉄道青年の 識れ高遠の大理想
3 ヒマラヤの嶺高からず タリムの盆地遠からず 若き先駆の力もて
やがてゆくべしカスピ海 我等鉄道青年の きけ遠大の建設譜
4 今しアジアの朝ぼらけ 旭日燦とかがやけば 若き生命の火と燃えて
五色に映ゆる旧山河 我等鉄道青年の おお栄光の大使命
昭和18年夏、青島で徴兵検査を受け第一乙種に合格、現役入隊が決まりました。
同19年1月の入隊を前に同18年12月みんなに見送られて坊子を去りました。
ところが、私の坊子時代の日本での住所と、戦後の住所は全く離れている上、
私の当時の名簿の一切は母が持ち歩いて戦災に会って 焼失。
未だに誰とも連絡の取りようがなく、私の青春は私の胸の中に仕舞ったままなのです。
そして写真が全くないのが残念です。
これを機会に、ゆかりに方々と再会出来ることを祈っています。
済南を語る会
勝間満里恵(彼女の実名です。旧姓は浜口です)さん執筆の「玄海の波濤を超えて」の出版を記念して
「済南を語る会」の会合が14年9月27日岡山で開催され出席しました。
当日集まったメンバーは、当時の現役の方々やその2代目でしたが、
皆さん年齢を忘れて懐かしい話で時間の経つのも忘れるほどの盛り上がりようでした。
私は、顔見知りは全く居なかったのが残念でしたが、関連する話に納得でした。
今回は岡山市及びその近郊の方々殆どでしたが、次回はもっと幅広く呼びかけることになりました。
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